意味の起源。

「寿司」という単語は「カッパ巻き」や「稲荷ずし」という個別の情報を包括的に扱うことができるが、それ自体を示すことはできない。

さて。
上記引用部で東氏が“「チャンク」の数がどうの”と書いているのは、世に「マジックナンバー7」として知られる人間の短期記憶の限界数のことであるが、
先に結論を書くと、そもそも、この理解からして間違えてるんじゃないかと思うのだな。


僕たちが知覚を通して見る世界、つまり「認知世界」は、重複のない「要素」の無限の集合として定義可能であるな。

世界が「無限」の情報を持つものならば、
人間の有限の知覚の内には「世界」の全てを収めることはできない。
一文字欠ければ言葉が意味を成さなくなるように、有限の知覚下では「世界」を記述することはできない。

つまり僕たちは「世界」を知ることができない。
では何故、僕たちは「世界」を感じることができるのだろうか。


…ということを考えたときに、別にそんな面倒くさい考え方しなくとも、自我の連続性をひとまず否定して、ゼロを発見したインド人のように、全てを事後的な解釈と見做しちゃえば、そのように「意識」を仮定しちゃえば、もっと単純な理解ができちゃうんじゃないかと。
つまり僕たちは、世界を「意識」して「見ている」のでなく、「見えるもの」その情報そのものを「意識」として後解釈しているだけなんじゃないのかと。

こう考えると何が面白いかというと、
人間のありとあらゆる思考や行動が、チャンクの限界7±2を複雑さの閾値に「ゲシュタルト心理学」の応用的なもの(多分)でなんとなく記述できるようになってしまうかもしれないということですよ?


わずか七語程度で完結する。
人間の「意識」とは、そういうものでしかないのかもしれない。
わーを。