断念しかけた。

検索してみて、今のところ、東浩紀氏のコレが僕が考えてることに一番近い。

渦状言論 - メタと動物化と郵便的世界

山田正紀さんに『神狩り』という小説がありますが、そこに確か、「人間は関係代名詞を7つあたりまでしか重ねられない」という台詞があります(手元に資料なく、うろおぼえです)。これそのものは山田さんが思いつきで書いたものらしいのですが、けっこう本質をついているような気がします。実際、認知科学で似たような実験がある、という話を読んだことがあります(これも手元に資料なし。確か「チャンク」の数がどうの、という実験です)。

僕は昔からこの考えが気にかかっています。人間は、確かに情報を外部化(デリダ風に言えば、「エクリチュール」にすれば)、いくらでも階層的な思考を展開することができる。しかし、情報の適切な外部化ができない場合は、あまり複雑なメタゲーム(カギカッコの重複)には耐えられないのではないか。つまりは、「彼は……と言った」とか「彼は「彼は……と言った」と言った」とかは頭の中で再現できるのかもしれないけれど、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」あたりからどうも処理できなくなってくるのではないか。そして、この限界は、僕たちの生活やコミュニケーションの様式をかなりのていど決めているのではないか。



僕の動物化論の基盤はここにあります。北田さんは、社会が複雑になってくるにつれて、メタゲームがどんどん発達すると考えている(あえて簡単に要約すると)。しかし僕は、社会があまりに複雑になると、メタゲームは有効に機能しなくなると主張しているのです。


(以下どうでもいいので略)

寿司屋で半乾きのウニ軍艦周回カウントしつつ考えていたことは、大雑把に言えば「何故に食いものごときがヒエラルキーを構成しとるか」っつーことであった。大トロとか高過ぎだよねぇ。
 ※ここでいきなり「市場原理」とか思い浮かべちゃった君は我慢の足りない子。

たとえば「トロ」と「カッパ巻き」の違いを僕たちは意識しているけど、どちらも「寿司」であることにつき差異を生じない。
さらにはどちらも「食いもの」である。
何故に「食えりゃどっちでもいい」とはならないのか。