創価学会は宗教保守勢力になりえないのか

昨日、頭にふと浮かんだネタ。暇なのよ。
アメリカ社会においていわゆるネオコンが政治的にどういう意味を持つのか、とか、新聞すらロクに読まない私には知る由も無いのだけど、どこの国でも庶民が政治に関心持つフリで考えてる事なんて、半径何メートルの世界の事だけでしょ?
イラク戦争だってマクロ的な意味とかどうでも良くて、せいぜいガソリンの値動きが気になる程度で。そういう実質ノンポリ(死語か?な人種にとって、宗教保守勢力支持の意味なんて、日々平穏無事に生きたいってだけなんじゃないのかなぁと。
そんなん東亜細亜人特有の能天気社会に生きる我々の多くも潜在的むしろ願望滲み出てるんじゃないかと思ったのだけど、そういう勢力の受け皿になるものは何なのであろうか。
そこで創価学会ですよ。
宗教なんて今や坊主がキレイ事並べ立てるだけが能なのにもかかわらず、何ゆえ黙ってるのかが良く分からない。一応政教分離の建前があるのだから、公明党の存在とか無かった事にして(既にry)一気に実質国教の座を勝ち取るべく某池田氏(アンラッキーな方の)にキレイ事を血反吐吐くまで叫ばしたれば良いのに。そして日本中の趣味=犬の散歩、日向ぼっこ彼女の膝枕な連中のハートをぐっちゃり掴んでブレイクハート。
そんな話をウチの生き字引(父)にしたら、日本の宗教組織はどこもかしこもそもそも政治的に混沌としている、との答え。右も左も一緒くたな故に政治的なアクションを起こしにくい、と。
フーン…。
つまりどうやら宗教は受け皿にはならない。
そこで天皇制でつよ。
ああ何と無く分かってきました。つまり儒教(独自の解釈に基づく)でつね?
孔子江戸前の寿司ネタと混同してしまいがちな我々現代日本人でも無問題。白の道着を着て我らがメッカ船の科学館を巡礼すれば自然とその聖句が口をついて出てくるハズ(年寄り限定。
「おとうさんおかあさんをたいせつにしよう」
要は年功序列です(ェ。お年よりは大切に。
コレ無くして日本社会は総体として立ち行かない。つまり気分の問題。そしてみんなエラぶりたい。
明治以降、国家統合の軸としての天皇制は、このように制度設定側の思惑と庶民感覚とにズレを抱えたまま、ホントのキモチに気付かぬフリでお互いズルズルと今日に至ってしまっているのではないか。そんな仮面夫婦生活。

先日の長崎の事件について、某所に子供には世間体が無いからどーたら書いてあるのを読んで、でも一人でのこのこ殺されに行った彼女には彼女なりの、掲示板の書き込みごときで殺意まで抱いた彼女には彼女なりの「世間」の感覚があったわけだよな、思う。
結局お互い噛み合って無かったみたいだけれど。
つまりズレと言うのは社会(国家)と世間という認識の差のことだ。互いが互いに、それを同じものだと信じているコトが悲劇の始まり。
この事件に関する報道、論評、基本的にはどうでも良いものばかりだったけれど、萌えキャラ化なAAを見て、「結論>>ああ、萌えは実に偉大だなぁ。」と感じた。
だけど多分、この感覚こそ真実恐れるべきものだ。のだが、夕刊の記事にあったように、教育基本法改正、「国愛し」「大切にし」併記、とかどうでもいいコトの延長線レベルの話に終始しちゃうのでしょうねやっぱり。
愛国心」とか言ってる時点で現状のダメっぷりに気付くべきでしょうが。それで結局悲嘆に明け暮れる以外にあんたらに出来ることがあるのかと問いたい。


…なんか今日の日記最低だ。

ところでこの日記なのですが、既に日記ですらないのですが、被アンテナ数5つでかつ一度もリンクがないような落書きでしてよ?
正直、…困る//////。